Asia Pacific Cultural Centre for UNESCO (ACCU)
Asia-Pacific Database on Intangible Cultural Heritage (ICH)

トップ | コミュニティ事業 | 受賞コミュニティ
ACCU Prize
Awaji Ningyo Joruri

伝統芸能振興活動(プロジェクト)の名称

財団法人 淡路人形協会

対象となっている伝統芸能の名称

淡路人形浄瑠璃

コミュニティ(市町村など)の所在

兵庫県淡路市・洲本市・南あわじ市

淡路人形浄瑠璃について

淡路人形浄瑠璃は500年の伝統を誇る国指定重要民俗文化財である。代表的な説では、鎌倉時代、大阪から派遣された楽人たちが、淡路島の三原の地で舞楽などの神事を生業としていたが、その後西宮の戎神社に属するエビスカキから人形操りの技術を受け継いで始まったと言われている。琉球から伝わった蛇皮線を改良した三味線と結びつき人形浄瑠璃は、ますます完成された芸能となっていった。

江戸時代の中期には、淡路人形座は44を数え、互いに技芸を競い、日本全国を巡業して回った。その巡業先で淡路人形を残し、伝えたため今でも全国に100カ所以上、人形浄瑠璃が継承されている。その上淡路人形は、文楽と異なり野掛け舞台であったため、大きな動作、大きな人形と進化した。早変わり、道具返し、衣装山など独特な演出がある淡路人形浄瑠璃は伝統芸能であると同時に、世界に誇れる舞台芸術である。

過去に直面した問題について

淡路島民のほとんどは、農業、漁業に従事し、地域共同体の基盤が堅く、自然と共生することが暮らしの根源であり、季節の折々に神を讃える儀式として、あるいは神への祈願として『淡路人形浄瑠璃』はなくてはならないものであった。大きい座は100人近いメンバーで構成されており、宮中や徳島藩主のご贔屓や保護の下、各座は競って得意先の藩や巡業先を興行した。

しかし、明治時代には藩の保護がなくなり、ご贔屓筋も減少した。映画・ラジオなど庶民の娯楽の多様化のため、大正15年(1926)には、人形座は激減していった。この状態を危惧する有志たちが、淡路人形を

守ろうと淡路人形芝居保存協会を設立し、淡路人形芸術復興協会をつくった。

ところが第二次世界大戦のため、道具類のほとんどは焼失し、淡路人形座は廃絶あるいは活動停止状態とならざるを得なかった。人形座と共に生きてきた人形遣いや大夫、三味線弾きの人たちは、なんとか淡路人形浄瑠璃を守ろうと新たな生き方を模索し、文楽に移るなどして暮らしを立てた。こうして、一生の仕事として高いレベルの人形集団である淡路人形浄瑠璃も、これまでかと絶望する状態となってしまった。

問題を乗り越えるために実施したプロジェクト

昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されると、翌年には淡路人形協会と淡路人形座が合併し、財団法人淡路人形協会が誕生した。淡路人形協会は、下記のプロジェクトを計画し、確実な実施にこぎ着けたのである。

  1. 人形遣い・太夫・三味線弾きの後継者養成
  2. 淡路人形のかしら・衣装・道具類その他の収集及び保存
  3. 淡路人形浄瑠璃の調査・研究
  4. 発展のために中央組織への働きかけ
  5. 人形座職員の身分保障
  6. 全国人形芝居サミット&フェスティバルの開催
  7. 外国公演の実施

昭和45年(1970)の東京国立劇場での通し上演、4年後のアメリカ公演の大成功により、淡路人形浄瑠璃は島民の感嘆や賞賛を受けることとなった。そして、昭和60年(1985)の淡路人形座の移転に伴い、プロとしての技芸を伝承するため職業として不安定であった淡路人形座の若手座員を、淡路鳴門岬公園開発事務組合の職員として公務員の身分保障をし、安心して技芸に打ち込める体制づくりを目指した。

小中学校や高校には郷土部や郷土芸能部などが発足し、後継者養成システムができ、また、学校への出張公演・体験講座を繰り返し、多くの生徒に鑑賞する機会をつくった。

ビデオ


入賞プロジェクトの伝統芸能:淡路人形浄瑠璃

 

継承者へのインタビュー